職貢図というのは中国の王朝に対して周辺諸国が貢物を納めた様子を描いたもので、題記はその注釈のようなものです。
梁は6世紀頃の中国の王朝で、この職貢図が描かれたのは526年から536年頃だそうで、原本は無く断片的な模写がいくつか残っていて、昨年発見されたものによって、今までの欠落部分をかなり補填できたそうです。
その中にある斯羅国(新羅)について、「或るときは韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった」という記述が多くの論議を巻き起こしているようで、倭国の存在が改めて関心を呼んでいます。
高句麗の広開土王碑碑文にも、AD400年前後の10年以上の間において、度々倭国と高句麗の大規模な戦闘があった事が記されていて、この倭国が果たして大和朝廷なのか否かが問われているわけですが、知人は根っからの九州王朝支持者なので、「梁 職貢図 題記」の新たな写本の発見もまた九州王朝の存在の証拠だと息巻いていました。
九州王朝説は大和朝廷の成立に先立って、九州に一大勢力があって、頻繁に韓半島にも侵攻していたとする説で、旧唐書「東夷伝」には倭国と日本とは別であり、もともと小国(周辺国)であった日本が倭国を併合したと書かれています。
もちろん古代の事ですから、国と言う認識が現代の国の認識とは異なっているでしょうし、当時大和朝廷そのものがまだ地方豪族のレベルであったかも知れない訳ですから、その大和朝廷の創作の色濃い日本書紀が語るように、九州地方の一大豪族が九州王朝の真の姿であったのかもしれません。
いずれにしても古代に九州から韓半島に向けて幾度となく侵攻し、百済や新羅や高句麗や唐とも、様々な軋轢や権謀術数を繰り返していた事は事実の様ですし、そこまで韓半島にこだわっていたのが単に戦略的な理由なのか、あるいはそこが自分たちの出自であったからなのかは分かりませんが、文武共に活発な交流があった事は間違いないでしょう。
私たちが古代史などを探る時に、ともすれば現代の民族や国家や国境に基づいて物事を判断してしまう事が良くあります。
5世紀や6世紀の九州の勢力にしても、頻繁に韓半島と行き来していたのは、その当時には民族的に差異がほとんど無かったからなのかも知れません。
また今現在の日韓の国境自体が、当時は存在していなかったであろう事を考えると、人の心を通わせる妨げになっているものは、単に物理的な距離だけなのかも知れませんね。
人の心の囲いが家の囲いとなり、家の囲いの延長が国境になっているとするなら、心の囲いが無くならない限り、国境撤廃という理想は実現しない事になります。
私たちもまた国境撤廃という理想を語る前に、お互いの心に隔たりのない家庭をまず、目指すべきなのでしょうね。
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