2010年10月31日

本日の礼拝

本日は宋榮錫総会長のインターネット礼拝でした。

日本に対する神様の祝福と天運の相続について熱く語って下さいました。





And God said, Let there be light: and there was light / *L*u*z*A*



日本と言う国は本当に神様から愛されている国だと思いますが、私たち個人もそれぞれに、神様から溢れんばかりの愛を受けている事は間違いありません。

人間は愛された分だけ人を愛する事が出来ると良く言いますが、愛されている事をどれだけ実感できているのかが問題になりますね。

神様がイエス様の命と引き換えに私たち堕落人間を愛して下さったわけですし、イエス様も私たちを愛して下さったが故に、肉的救いの道が塞がれてしまった後にも、ご自身の命と引き換えに霊的救いの道を切り開かれたわけです。

さらに文鮮明先生においては、私たちを愛して下さったが故に、七たびも死の道を歩まれ復活してこられたのですから、どれほどに愛されている私たちであるかという事に、本心から気付き実感するべきでしょうね。

家庭環境や社会環境が極悪であったり、生活環境が恵まれていなかったりして、どれだけいびつな人格であったとしても、それでもありのままの私たちを信じて愛して下さった神様です。

こんなに罪深い私達一人一人をまるで「宝物」であるかのように神様は大切にし、愛して下さっているという実感を万民が持てるようにして、その神様の愛に応えようとする事が地上天国の礎であり、天一国の礎なのでしょうね。






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posted by とら吉 at 17:44| 東京 ☔| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月29日

生きる意味

子供の頃にあれこれと選択に迷ってしまう事があって、親から優柔不断だと良く言われた事がありますが、次女を見ているとどうやらそれが遺伝してしまっているようで、次女も何かにつけて迷う事が多いようです。

それに比べて我が家の猫を見ていると、本能のままに動き回っていて、選択に迷うと言う事はないようで、まるで即断即決で動いているようにも見えるのですが、猫に物事を判断して選択するような意識や意志はもちろんありません。

寝たい時に寝て、食べたい時に食べて、遊びたい時に遊ぶという本能のままの猫の生活は、見ているだけで心が癒されますが、そんな生活をしてみたいと言う願望は、日々の生活で蓄積されたストレスが出処でしょう。

人間があれこれと判断に迷ってしまうのは、人間である証拠だとも言えますね。





猫桶 / tmurakam



オーストリア出身の著名な精神科医であり心理学者のビクター・フランクルは、人間はあらゆる状況の中で、人間としてあるべき姿を絶えず決定しようとする存在であると定義付けました。

フランクルは第2次世界大戦時には、ユダヤ人であるが故にナチスによって強制収容所に送りこまれた経験を持ち、ロゴセラピーという心理療法の創始者でもあります。

ロゴセラピーは、人間が自らの人生の目的や生きる意味を見出すことを手助けすることで様々な心の病を癒す心理療法で、それ故に生きる目的や意味を強く求め、認識して生きる立場から出発しているとも言えます。

しかしそこに宗教性はないので、人間としてあるべき姿を絶えず決定しようとする存在であると言っても、そのあるべき姿が宗教的・倫理道徳的な姿のみならず、悪魔的な姿を選択する事も含まれています。

堕落性をも含めて人間の姿として捉えているので、判断した結果が本人の願わざる方向に向かってしまう事もあるのですが、それでも生きる目的や意味を見出した人間はいかなる苦痛にも耐えることが出来ると説いていますので、学者として様々な体験や探究の後に、人間の中に宿る本性や本然の姿を垣間見ていたのかもしれません。

信仰者が苦難の路程を耐え得るのも、神様の愛と真理に触れて、生きる意味や目的を見出したからであり、逆にそれを見いだせなければ、苦難の到来と共に信仰の道から遠ざかってしまう事でしょう。

人間が常に生きる目的を見出そうとするのは、神様から与えられた人間の本性なのですね。

そう言えば何気なく良く使う言葉で、「迷った時の神頼み」という言葉があります。

神様によって生きる目的や生きる価値が示されていれば、迷った時の選択肢も悪い結果になる筈がないと言った確信と裏付けがあれば、この言葉も重みのある言葉になるでしょうね。






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posted by とら吉 at 16:44| 東京 ☁| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年10月28日

愛を愛らしく

昨夜、清平40日修錬会に参加している長女からメールが届いて、連続して次の40修にも出ようかと迷っているとの連絡がありました。

事情が許せば参加する方が良いのは分かり切ったことですが、清平での生活にも慣れてきたからこそ、そんな事を考える余裕が出てきたのでしょうね。

秋の大役事の際にはスタッフ側に回っていたでしょうから、忙しくて自分の事を考えている余裕もなかったはずですし、まだ壇上には立てていないものの、役事スタッフ(キーボード)の練習もしているので、あっという間に時間が過ぎて行くそうです。

9月の21修、10月の清平40修と続いて、長女の顔を見ていない時間が長くなってきて、子供が巣立っていくとこんな気持ちになるのかと、相対者と話し合っているのですが、寂しいような喜ばしいような少し複雑な心境になっています。

まあ、子離れしていないと言われればそれまでなのですが、「淋しさは愛のためにある」という言葉もありますので、再び顔を合わせる時に親子の情がほとばしるのかもしれません。




四位基台.jpg





修錬会の延長に関しては本人がその気であればもちろんOKなのですが、例えば淋しさや親の事情で子供が神様に近づいていくのを妨げ、子供の心に苦悩を持たせるとすれば、それこそ堕落論の中にある「偽りの愛によって本心の自由が拘束される」という表現そのものですね。

自己中心的な愛は相手を束縛してしまいますが、真の愛は相手を解放するとも言います。

それは親子関係においても同様であって、何を開放するのかと言えば相手の本心であり、神様を求め神様に近づこうとする本性なのでしょうね。

子供の成長と共に親も成長させられるとは良く言いますが、子供の成長に応じて様々な心情を通過しながら、親の愛を磨き上げて行くようになっているようです。

特に、今まで味わった事も無いような心情の世界を通過する際には、自分の心からの発露とは思えないような堕落性や雑念に近いものが湧き上がってきて、我ながら驚きつつも、祈るような気持ちで整理する事もあるようです。

そこから、さらに本然の愛の形に近づいていく道が開かれていくのでしょうね。

神様の愛が運航する基台として、四位基台の図式で神様を天の位置にいただいて、夫と妻、そして子女が配置された形が思い浮かぶのですが、それぞれの授受作用による切磋琢磨によって愛が愛らしく完成に近づく事が、単なる図式ではなく現実に生々しく実感できる事もあるのだと、改めて気付かせていただきました。




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posted by とら吉 at 19:14| 東京 ☔| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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