2010年11月29日

良い出会い

先日テレビを見ていたら、映画の美術監督のインタビューを放映していました。

映画本編の監督と異なり、あくまでも裏方なので、仕事上で出会う人との関わり方にとても注意を払っているそうです。

仕事上での良い人との出会いの有無で、その仕事に取り組んでいる自分自身の力量が判断できるとも言っておられました。

確かに良い人との出会いは公私において大切ですね。

その出会いが日常生活や仕事の中身が充実させ、その出会いが人生そのものを充実させることだってあるのですから、タイミング良く、良い人と出会うと言う事は神がかりと言っても良いかもしれません。





Wheat Field In Newton-St-Loe / Photography_Gal




ところで、私自身の事で考えてみた時に、私が人と良い出会いが出来ているかと言う観点でふと思いついたのは、人との出会い以上に神様と良い出会いが出来ているだろうかと言う事です。

神様との出会いは、祈りの中や、み言の中や、人との対話の中や、それ以外にも日常生活の中でもある瞬間にもたらされるのでしょうが、それが自分の心霊にインパクトを与え、そこからの歩みにおいての大きな起点となるような出会いがあってこそ、神様と良い出会い方をしていると言えるのかもしれません。

自分の心霊を向上させるようなひらめきや直感なども含めて、神様は様々な出会いを用意してくださっているようですから、私たちの心の姿勢如何によって、その出会いも様々な形でもたらされるのでしょうね。

また、神様が多くの恵みを用意して良い出会いをもたらそうとして下さっても、その出会いを自分にとってそれほどに有益でない、何気ない出会いとして見過ごしてしまうと、神様の失望を招くことになるのかもしれません。

そのように考えると逆に、何気ない人との出会い、何気ない思いつきやひらめきや直感にも、神様からの膨大な恩寵とメッセージが隠されているのかもしれないと考えた方が、信仰生活にも楽しみが増えることは間違いありませんね。




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posted by とら吉 at 16:04| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月28日

本日の礼拝

本日は教会長がラスベガスの大会に参加するため渡米されて不在でしたので、渡航前に収録したみ言のビデオを礼拝で上映しました。

今の摂理や先日の韓半島の小競り合いなどについて語られ、私たちが今持つべき姿勢を教えていただきました。


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今週も新刊「愛天愛人愛国」から以下の抜粋を週報に掲載させていただきました。

いくら孤独な場でも、感謝する生活ができる人にならなければなりません。感謝する心で生きなければ、霊界に行って天法に引っ掛かるようになります。感謝して喜べる福を受け、それを万民に分けてあげ、彼らも喜んで感謝するようにしてあげなければなりません。
「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17・21)とイエス様が語られたように、感謝できる心で天国を成せなければなりません。感謝する心がなければ、天国に行けません。信仰生活は、必ず第三者の立場から抜け出さなければなりません。
皆さん自身を中心として信仰生活をするのです。それゆえに、信仰生活をする人には、人がどうであろうと、自分一人が守っていくべき信仰の道があるのです。天を中心として感謝できる生活であり、一人で満足する生活ができなければなりません。世の中がどんなに悪くても、天地を見つめながら、「感謝します。私は幸福です。」と言える信仰生活をしなければなりません。



「信仰生活は、必ず第三者の立場から抜け出さなければなりません」というみ言は核心をついていますね。

自分自身の事として神様との関係を見つめて行かなければ、何事もうまくいかないのでしょうし、またそれが天運を受ける道なのだと思います。

また、信仰は個人の問題なのだと言う事がその通り社会に認知され、それが当たり前の風潮にならなければ、成熟した社会とは言えないのだと思います。

それが出来ていないが故に、改宗屋などという悪魔の手先のような輩が暗躍する余地が残されているのでしょうし、信仰の問題と家族の問題をすり替えられても違和感を感じないような社会の風潮が、いつまでも改善されないのでしょうね。

12月3日には拉致監禁解放プロジェクトのデモ行進が行われますので、社会に対して強く訴えかけて行きたいものです。




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posted by とら吉 at 17:00| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年11月26日

人生の彩り

今朝通勤途上で駅に向かって歩いていると、しっかりと色づいた紅葉が町のあちらこちらにあって、秋の深まりを改めて感じました。

日ごろ見慣れている木々ではあるのですが、それほどに色づいていた印象がなかったので、何か新しいものを見つけたような新鮮な驚きを覚えました。

散りゆく紅葉は、葉の散り際を彩りよく飾っているようで、山川草木の四季の移り変わりに、人間の幼青壮老の変化を重ね合わせて感じ取ってきた日本人にとっては、長い時間の中で自然から学び取ってきた生き様があるように感じます。

木の葉の一枚にも込められた神様の愛と心情を直感的に受け止めながら、私たちの先祖はその人生に彩りを加えてきたのでしょう。

四季折々の様々な行事や風習は、それがそのまま人生の節目にもなっていて、それもまた人生の彩りを増し加える要素であると思います。

そして熟成した人生の締めくくりにおいては、彩りよく紅葉が散っていくように、感謝に満ちて色鮮やかに霊界に旅立っていくのが、人間の願いである事は間違いありません。





Ginkgo Trees / mrhayata



翻って世界を見てみると、報われない生・報われない死があまりにもおびただしいのが現状ですが、その生死に意義と目的と価値を付与するのも宗教の使命の一つであるが故に、過去多くの宣教師が人跡未踏の辺境の地まで命がけで訪れてきました。

いずれ神様のみもとに帰る魂を、少しでも平安に送り出したいと願うのが宗教者の共通した本心でしょうし、それが結果として神様ご自身の安寧にわずかながらもつながるのだと言う事を、直感的に人間は理解できるのでしょうね。

例えば、今は亡きマザー・テレサがインドで、病気や飢餓で死が間近いホームレスに手厚い看護を施し、薬や食事を与える活動をしてこられたことは良く知られていますが、それが単なる慈善活動ではない事も本人の自伝などで理解できます。

インドの貧民窟で生まれ育った貧民たちは親も分からず家も無く、動物のように扱われ、その存在すらも認めてもらえない境遇のホームレスであるが故に、その生を呪い、神仏を恨んでも無理からぬ立場でありながら、死に間際にマザー・テレサ達の手厚い看護と介護を受けて、初めて触れた人の温かみに感謝して涙を流しながら死を迎えるその姿は、何よりも美しいと述懐しておられました。

彼らの人生がどんなに惨めな人生であったとしても、その死の間際に感謝に満ちた姿で送り出してあげたいと願われるマザー・テレサの生活は、まさに祈りの生活そのものでしょうね。

その心情の世界に信仰者として到達してみたいと願うのは、私自身の思いであると同時に、神様によって与えられた本性なのかもしれません。

いずれにしても他者の人生を教導することで、神様の心を慰め、神様に安寧をもたらす結果につながるのであれば、それは人間にとっての生きがいそのものでしょうね。




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posted by とら吉 at 19:20| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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