2011年03月27日

本日の礼拝

多くの場合、私たちは、教会に行ったり、宗教的なことを行ったりして、霊的に修養を行っているかもしれませんが、いったん家に帰れば、家族や配偶者と共に、世俗的なことと、この世的な時間に埋もれてしまいます。これが大きな問題なのです!時として私たちは、家庭から、神聖さや宗数的なものは教会に属するものだとして追い出してしまうのです。心と体を統一し、健全で真の家庭をつくることにより、世界の平和と和合、統一が成されると信じる統一教会員の視点から見るとき、これでは、理論的にも教理的にも一貫性がありません。私たちの日常生活のどの部分においても、たとえそれが最も世俗的なものとみなされるものでも、神聖さを欠いてはいけません。
 私たちが呼吸をするとき、神様からどのように命の息を受けているのかを感じながら、神様と共にしなければなりません。道を歩く時にも、“神様と一緒に歩いている”と考え、鳥たちがさえずる声を聞くときは、聞くことができない人たちを思って、“無限の感謝”を感じなければなりません。最も簡単で単純なことから神聖さを認識し、そのような認識を広げていくことこそ、宗教的修行の道になり、これによって私たちは、感謝することと、生きていることの恩恵に対して、畏敬の念であふれるようになるのです。また、最も世俗的で平凡で、いつも反復され、ともすればうんざりするように思えることもある私たちの日常的生活、特に、家族と共にいるような時間の中に、霊的で宗教的な修養の定義をもっと拡大させていかなければなりません。 真のお父様は、「理想世界では、いかなる理念も宗教も必要ない」と語られました。また「人類は、神様と完全な和合を成し、交感して生きることができる」と語られました。「現在のような宗教的形式や儀礼は必要なくなり、私たちの日常生活と行動の中で神様の実存を経験し、より近く感じるようになる」とも語られました。
                        <天和堂 より> 
   

本日の礼拝の訓読のみ言です。

新しく赴任された教会長様の初めての礼拝でしたが、後半に聖霊治癒礼拝もあるので、短めの説教になりましたが、天暦時代において私たち祝福家庭が持つべき姿勢を、再確認させていただきました。



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午後は中高生も交えて、聖霊治癒礼拝を行ないましたが、初めての体験で戸惑っていた子供も居て、全員が無心に取り組めたようではありませんでした。

それでも我知らず涙している子たちも居て、恩恵が溢れていたようです

真の愛は真空であるというみ言を聞いたことがありますが、すべてを投入して捧げつくして、自分が無になって、何もなくなってしまったようになった時、あらゆるものが注ぎ込まれてくる。

それはまさに宇宙でロケットのハッチをあけると、すべてのものが吸い込まれていくような状態であり、それを真の愛に例えられたのだと思うのですが、聖霊治癒礼拝も自分が無になって、自分の気やエネルギーをご父母様のために捧げ尽す心情で投入するとき、その無になった自分の心に聖霊が降りてこられて、そこから役事が始まるのでしょう。

日本全国で精誠条件として行なわれていますが、これを通して大きく教会内部が復興していく様が目に浮かんできます。

私たち食口が復興してこそ、この国難を乗り越えていけるのでしょうね。



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posted by とら吉 at 16:47| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月23日

自然の営み

私の所属する教会の教会長様が先日代わって、何かとあわただしい日々が続いています。

忙しい中でも気付いてみれば、街中の木々も春めいてきたようで、駅に向かう道の途中でもところどころにモクレンが咲き始めていますし、軒先の植木鉢のチューリップが咲き始めている家も見かけました。

自然は人の営みとは関係なく、四季折々の姿と彩りを私たちの前に見せてくれます。

地震災害に遭った東北地方の方たちは、四季の変化に意識を向ける余裕など無いでしょうが、逆に現地の復興が進んで、四季の変化に目を向けるような余裕が少しでも早く持てるようになって欲しいと祈らないではいられません。

それでも地震発生から10日以上経って、現地も少しづつ復興に向けて動き始めているようですね。

災害の中から生還した食口の証しが色々と届いていますが、現時点でまだ安否の確認できない家庭が7家庭いるそうですので、一日も早く安否確認ができるように願っています。




20090103 Obara 2 / BONGURI



それにしても自然の営みは、時として大災害となり、時として人の心の潤いにもなるのですから、大自然を前にして人間がいかに非力な存在であるかと言う事が良く分かります。

私たち人間はただ、与えられた生命を精一杯生きるのみですね。

それでも自分の生命が与えられたものであると自覚しているか否かで、その生きざまは大きく変わります。

私たちの生命は、夏場の水たまりに湧くボウフラのような自然発生的なものではなく、元をたどれば神様に由来する生命であることを思えば、地上で生きている中で神様といかに因縁を結ぶかと言うことを常に課題として、取り組んでいきたいものです。



神霊的な境地に入ってみると、小さな砂一粒にも宇宙の道理が入っていて、一つの原子のも無尽蔵の宇宙の調和が入っていることが分かります。ゆえに、存在するすべてのものは神様の愛の手を通って出てきたものであり、必ず神様と心情的な関係を結んで存在しているのです。   <愛天愛人愛国 より>



このみ言のように自然万物のみならず、私たち人間も当然のことながら、神様との心情的な関係を結んで存在しているのですから、その心情的な関係を知的に理解する次元を越えて、熱い親子の情の因縁として感得出来るようになることが、与えられた生命を精一杯生きることに繋がっているのでしょうね。


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posted by とら吉 at 20:40| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年03月20日

本日の礼拝

本日は松涛本部でのインターネット礼拝の中継でした。

文孝進様の追悼礼拝の形式で、文亨進世界会長ご夫妻が来られてみ言を語られ、東日本大震災によって心を傷めている日本食口を励ましてくださいました。



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午後は教区長様をお迎えして、教会長様の離就任式が行なわれました。

2年1ヶ月の間、教会の復興と発展のために尽力してくださいました教会長様が他教会に赴任され、新たに新しい教会長様をお迎えしたのですが、3月と言えば卒業シーズンで出会いと別れの季節でもありますので、感慨無量なところでもあります。

人と人との出会いと言うものは、不思議なものですね。

そこに縁を感じているからこそ、またその人との別れも心に残るのでしょう。

単に記憶に残るのではなく、心に残る出会いを常に心がけたいものです。



ところで、清平では今週末は霊肉祝福式があり、急遽相対者が実母の代理として参加しました。

今日の午後には、すべて問題なく終了した旨のメールが相対者から届きましたので、霊界におられる相対者のお父さんも安心したことと思います。

他界してから10年待たせた事になりますので、さぞ待ち遠しかったことと思いますが、交通事情が不安定な中、押し出されるように今回の修練会に相対者が清平に行くことができたのは、霊界が強烈に後押ししていたに違いありません。

真の父母言語教育院に語学留学している長女が、今回の修練会でも役事スタッフでキーボードを弾いていたそうで、午後は相対者とくつろいでいたようです。

今日はあわただしくも充実した聖日でした。





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posted by とら吉 at 19:01| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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