2011年04月27日

道なり

今日は東京は初夏のような日差しです。

全国各地で気温が上がり、南風が吹き荒れ、夜には雨が降ると言いますから、色々と盛りだくさんの天候です。

所用で午後、車で出かけましたが、窓を全開にしても暑いので、とうとうクーラーを入れてしまいました。

あまり日ごろ走らない道でしたが、道なりに走っていけば良いとあらかじめ聞いていましたので、途中くねくねと曲がりつつもなんとか目的地に着きました。
                
道なりに走るとはよく言ったもので、あれこれとあまり考えなくても、何となく車の走行に任せて進んでいるうちに、たどり着けるのですから、この交差点を右だとかあの三差路を左だとか細かく教わるよりも簡潔であり、明瞭とまでいかなくても何となく理解できる指示ですね。

若干汗ばみながらも、心地よい風に吹かれて、田舎道を走っていると、心がリフレッシュされたようでした。





20090410 Tulip 11 / BONGURI




私たちの人生も道なりに走って行きたいものですね。

人によっては大きく分岐したり、同じルートを周回することもありますが、目的地に到達するために無理して狭い近道を選ぶ人や、気長に回り道をする人も居ますが、道なりに走っているうちに到達するのが一番無理がありません。

もっとも、車の走る道は脇道があっても、自分からそこに向かわなければ迷い込んでしまう事はありませんが、人生の道筋はあちらこちらに脇道があり、しかもそこに引っぱり込んで迷わせようとする悪霊の業があります。

人生路程を道なりに走りつつ目的地に到達できるということは、善霊の業に守られているからこそ、脇道を見えなくしたりして、迷うことなく走れるのでしょう。

また、車にやたらと物を積み込みすぎると、スピードダウンしてしまうように、身の丈に合った持ち物で人生の道を進むことも必要です。

特に3月の震災以降、日本人は物足りている喜びを再認識する機会が与えられているようにも思えます。

そう考えていると、古い道歌を思い出しました。

  足ることを 知る心こそ 宝船 世をやすやすと 渡るなりけり

足りている事の自覚、それは見方を変えれば、不足の無いように与えられ、生かされている喜びでもあります。

その喜びを感じて生きる日々の積み重ねがあればこそ、人生の道筋も道なりに走りつつ、目指す目的地にたどり着けるのかも知れませんね。






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posted by とら吉 at 19:00| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月24日

本日の礼拝

この時、主はつむじ風の中からヨブに答えられた。
「無知の言葉をもって、神の計りごとを暗くするこの者はだれか。あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。わたしが地の基をすえた時、どこにいたか。もしあなたが知っているなら言え。あなたがもし知っているなら、だれがその度量を定めたか。だれが測りなわを地の上に張ったか。その土台は何の上に置かれたか。その隅の石はだれがすえたか。かの時には明けの星は相共に歌い、神の子たちはみな喜び呼ばわった。
                                       <ヨブ記 38章 1節〜7節>
 あなたは海の源に行ったことがあるか。淵の底を歩いたことがあるか。死の門はあなたのために開かれたか。あなたは暗黒の門を見たことがあるか。
あなたは地の広さを見きわめたか。もしこれをことごとく知っているならば言え。
                                     <ヨブ記 38章 16節〜18節>
 あなたは岩間のやぎが子を産むときを知っているか。あなたは雌じかが子を産むのを見たことがあるか。これらの妊娠の月を数えることができるか。これらが産む時を知っているか。
                                       <ヨブ記 39章 1節〜2節>
 そこでヨブは主に答えて言った。
「わたしは知ります、あなたはすべての事をなすことができ、またいかなるおぼしめしでも、あなたにできないことはないことを。『無知をもって神の計りごとをおおうこの者はだれか』。それゆえ、わたしはみずから悟らない事を言い、みずから知らない、測り難い事を述べました。『聞け、わたしは語ろう、わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ』。
わたしはあなたの事を耳で聞いていましたが、今はわたしの目であなたを拝見いたします。それでわたしはみずから恨み、ちり灰の中で悔います」。
                           <ヨブ記 42章 1節〜6節>


本日の礼拝の訓読のみ言です。

ヨブ記の内容を通して、私たちは神様について語りはするが、神様に向き合って語っているのかという問題提起を基に、私たちの本来あるべき信仰姿勢を教示していただきました。

礼拝のメインテーマでもありますが、私たちは神様から与えられた生命であることを自覚しなければなりません。

与えられた生命であるが故に、神様からどのように取り扱われても私たちの私情をはさむ余地は本来無いのであり、ただそこに介在する正義の神様を信じるのみであるというのが、信仰者としての基本姿勢ですね。


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本日の午前11時から韓国仁川にて、天地人真の父母定着実体み言宣布天宙大会が開催されました。

礼拝もあって、大会の様子はリアルタイムでは見られませんでしたが、後にまたビデオがアップされるかも知れません。

詳細はよく分かりませんが、この大会の後に、真のご父母様はヨーロッパ巡回に出られるという事ですから、お体のご健康を切にお祈りしたいものですね。






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posted by とら吉 at 18:26| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年04月23日

柿の渋

本日は天候の不順な一日でしたが、車で走っているとハナミズキが咲いていて、もうすぐ5月になることを教えてくれているようでした。

所用で午後も車で出かけましたが、時折降って来る雨が一時止んで、大きな虹が空に浮かんでいるのが見えたので、思わず携帯で撮影しました。


110423_1642~01.JPG
110423_1641~01.JPG



滅多に見ることのない物を見ると、何か得をしたような気分になりますね。

何か良いことがありそうな予感がする午後のひと時でした。


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ところで昨日の「善を追求する欲望」の件で、友人が干し柿の仏教説話を教えてくれました。

その説話では欲望を柿の渋に例えています。

渋柿の皮をむき、軒につるして干し柿にすると、その過程で柿の渋はそのまま甘味に変わっていきます。

渋を抜いたわけでもなく、甘味を加えたわけでもなく、そのまま好ましいものに変わっていくわけで、しかも渋が渋として残っているが故に腐敗しないで済んでいると言います。

もちろんそこには丹精を込めた人間の手作業が加わっているからこそ、干し柿として熟成するのですから、人間自身の不断の努力は欠かせないという事ですね。

渋が好ましくないからと言って渋柿の渋を抜いてしまうと、良い干し柿にはならないという事です。

完熟した良い干し柿を神様がお望みであれば、あえて渋柿の渋を抜こうとはせず、完熟させることに丹精を込めることが肝心だということでしょうか。

渋があってこそ柿自体が腐敗せず長持ちするように、人間も欲望が無くなってしまったら、人としての完成に到らず、神様の目から見て好ましい、完熟した霊人体にはなれないのでしょうね。






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posted by とら吉 at 21:08| 東京 ☔| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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