2011年07月31日

本日の礼拝

本日は小山田秀生UPF日本会長をお迎えしての礼拝になりました。

ナイジェリア大会に参加された時の様子を詳細に説明していただくと共に、アフリカに対するお父様の戦略やその足跡などを、アフリカ大陸の歴史を絡めて説明していただいて、貴重な礼拝の時間を持つことが出来ました。

本来は一教会がお招きできるような方ではありませんが、たまたま7月31日のスケジュールが空いていて、たまたま日本におられたと言う事で、天の計らいによって招請出来たとしか考えられません。

座る椅子が足りなくて、台所の椅子まで礼拝堂に持ち込むほどに教会員が溢れかえっていましたので、とても復興する場となりました。

ナイジェリア大会では式典の数日前に、故人となった現地の指導者達のために昇華祝祭を執り行われたそうで、その土地の霊界の整理と善霊の協助を受けるために、大会前に行なわれたそうです。

小山田先生は地鎮祭のようなものだと表現されていましたが、確かに日本人にとってはそう言われると分かりやすいですね。

もちろん昇華祝祭の意義と価値は、地鎮祭などと比べればはるかに高い次元のものですが、そういった整理と準備を怠ることなく大会に臨まれるご父母様の姿勢は、本当に精誠を尽くされていると感じますね。


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礼拝後の食事会では、釣りの話を熱く語っておられたそうですが、小山田先生は国際釣り友好連盟の会長も務めておられるので、釣りに対しても色々と自論をお持ちのようです。

常にお父様の傍におられるので、釣りに関してはお父様から直伝の知恵やコツを相続しておられるのでしょう。

もっとも、お父様にとって釣りは趣味や遊びではなく精誠条件である事は良く聞くところです。

以前に教会学校の小学校高学年の子供に、釣りが条件になるのかと聞かれた事がありますが、普通の人にとっては釣りは趣味であっても、お父様のように自分の事情をすべて捨て去って、食べる事も寝る事もしないで投入されれば、信仰を持っていない人が見ても、「修行」のようだと感じることでしょう。

実際にはそこにさらに摂理の勝利をも掛けて、時には命懸けで投入されるのですから、凄まじいまでの精誠であると言えます。

その様子を真近で見てこられた小山田先生であればこそ、釣りに掛けるお父様の内的な世界に少しでも近づこうとして、釣りを極めてみようとされ、釣りに投入されたのだと思います。

どのような道筋からでも、お父様の内的な世界に近づく事が出来るのであれば、その道筋を選んでみようと思わされるその心情は、統一食口に共通の心情であり、私たちのアイデンティティーの一つなのかもしれませんね。




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posted by とら吉 at 20:48| 東京 ☔| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月30日

準備

このところ不安定な天候が続いています。

この数日の豪雨で日本のみならず、韓国においても大きな被害がもたらされていますが、天変地異に対しては、予測がつきませんね。

記録的な豪雨による河川の堤防の決壊や道路の崩落など、あらかじめ対策を立て準備を施しておけばという声もありますが、東日本大震災のように人間の予想をはるかに超える事態が起きる事もあり、人智を越える状況を想定する事自体がナンセンスなのかもしれません。

想定外と言う言葉が今年に入って良く使われていますが、こうなってくると天運の有る無し、守られているか否かという事に、つい意識がいってしまいます。

自然の脅威を前にした人間の無力さを感じて、無神論者は刹那的に生きようとする風潮を世の中に押し付けようとしますが、信仰者としては与えられた時間の中で自分にできる精誠を尽くす事を、言葉を変え形を変えてでも世の中に浸透させたいものです。




Mountain Stream / mabecerra



先日来、我が家の傍で蟻がせっせと食料を集めているのを見かけるのですが、蟻とキリギリスの童話のように、蟻は日頃から準備を怠らないものの代名詞として認識されています。

来るべき冬に備えて黙々と自分の出来る事をやろうとする蟻の姿を通して、神様は人間の有るべき姿を教えてくださっているのかもしれません。

蟻と言えば、旧約聖書の箴言に次の聖句があります。


なまけ者よ、ありのところへ行き、そのすることを見て、知恵を得よ。
ありは、かしらなく、つかさなく、王もないが、
夏のうちに食物をそなえ、刈入れの時に、かてを集める。
なまけ者よ、いつまで寝ているのか、いつ目をさまして起きるのか。
しばらく眠り、しばらくまどろみ、手をこまぬいて、またしばらく休む。
それゆえ、貧しさは盗びとのようにあなたに来り、乏しさは、
つわもののようにあなたに来る。
     <箴言6章6節〜11節> 
  

この箴言のみ言は、伝えられた時代や場所が現代の私たちの生活環境に比べて、明らかに生死禍福の極端な環境で生み出されてきたのでしょうから、その言葉の重みや影響力も私たちが想像する以上に大きかったことでしょう。

蟻を見てでも学べという言葉に、頷かない理由が見当たりません。

それでも想定外の事態に遭遇する可能性を考えると、現代に生きる私たちにとっては、自分の出来る精一杯の準備・備えという事が、単に外的な事だけでなく、霊的な精誠までも含んでいるとするのが妥当な処なのでしょうね。




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posted by とら吉 at 17:07| 東京 ☁| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年07月27日

感性と習慣性

8月もあと数日で終わろうとしています。

東京もこのところ猛暑日にならないのがせめてもの救いですが、例年以上に夏の風物が色あせてきているように感じるのは、私だけでしょうか。

夏には夏の風物があり、夏には夏の彩りがあるのですが、その移り変わりから心に感じ取って、心に刻み込む感傷がすこし曖昧になってきていて、鮮明さに事欠いているように感じてしまいます。

自然の中に身を置いて、季節を満喫するという機会が少ない事もその原因なのでしょうが、いま与えられている環境の中で、季節の風物や自然に目を向ける余裕が少なくなっているのかもしれません。

感性を研ぎ澄ませれば、どこにでも季節感を感じる機会があり、心に情感を刻み込む瞬間が、常に自分を待ち受けているような、言い知れぬ期待感が心の奥底からにじみ出てくる事を感じる筈ですが、それを妨げている物があるようです。

単純に考えればその要因としては、肉体的な疲れや精神的なストレスが思い浮かぶのですが、それ以外の要因として、神様との心情的な距離があるのかもしれませんね。

信仰生活を始めた青年の頃から、都会の街角を吹く風の中にも神様の息吹を感じるような、そのような感性を持ちたいものだと思ってきましたが、振り返ってみると神様との心情的な距離が小さい時には、感性も研ぎ澄まされていたように感じます。

自然万物・万象に対する感性は神様に由来する故なのでしょう。

万物万象に込められた神様の心情の痕跡を、いつでもどこでも感じ取れるようになりたいものですね。




Rose(Furukawa Gardens) / kanegen




考えてみると、神様はいつも私たちに寄り添い、干渉し、心情的にも近づこうとして下さっているのですから、神様との心情的な距離を作ってしまっているのは人間の側であって、時として神様を求め、時として神様に近づきながら、往々にして神様を意識しない生活や、神様の存在を忘れてしまう生活をしてしまうのは、どこまでも自分の堕落性の故ですね。

自分の必要性に応じて神様を求めるような、御利益信仰やご都合主義の信仰には陥らないように心掛けたいものです。

そう思いながらも、自分の都合に合わせて神様を求めるような瞬間がある事を考えると、これは多神教に浸ってきた日本人の血統的な要素もあるのかもしれません。

自分の都合に応じて神様を求め、挙句には神様を挿げ替えるような習慣性が私の血の中に、民族性として存在していて、それによって無意識に自分の都合に合わせて神様を求めようとするような傾向があるとすれば、それは神様が目をそむけたくなるような要素なのでしょうね。

神様の事情、神様の都合に合わせて考え行動する事を、何よりも大切にするべきであると、改めて思いました。




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posted by とら吉 at 12:44| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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