2011年10月30日

本日の礼拝

本日は原理復興会で「創造原理」のお話でした。

いつものようにパワーポイントで講義をしていただきましたが、参加者が多くて椅子が足りなくなってしまうほどでした。

久し振りに見る顔が10名程度来ていて、礼拝後の集まりでも雑談に花が咲いていたようです。

新規参加者もいて、また中高生で部活などで普段の中高生礼拝に出席できない子供たちのために、別枠で午前11時から小規模の礼拝時間を設けましたので、大人から子供まで人が溢れかえっているような1日でした。


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今日は朝から曇りがちでしたが、夜になって雨が降ってきました。

この時期は一雨ごとに寒くなってきますが、それでも暖かい日もあって寒暖の差が大きいようです。

我が家もついに居間にコタツを出してしまいましたが、暖を求めて家族から猫からすべてが集まって来るようで、居間が癒しの場になっています。

なぜかコタツに足を入れるとホッとするのですが、足が温まるからだけではなく、そこに幼少期からの追憶と体験が重なって、気持ちが癒されるのかもしれません。

そう言えば2年前に他界した女流歌人、森岡貞香の歌に次のような一首がありました。


昨(きそ)ひと夜ゆたんぽ抱けば追熟といふべくわれのやはらかにある


最近の節電やエコブームで復活してきた「湯たんぽ」ですが、この短歌では熱源との一体感と言うか、湯たんぽが体の一部の様でもあります。

物質だけでなく人との距離感も、この歌人は常人と違った感覚を持っていたようで、次のような短歌もあります。


待ちて居りしと人に言ひたるわがこゑをわれみづからも聞きてありたり


待ち人に語りかける言葉を自分が自分の耳で聞いていて、まるで逆に語りかけられているような、不思議な一体感ですが、人間同士で本当に心情が通った時に、このような一体感を感じるのかもしれません。

神様が創造しようとされた本然の世界では、人間同士、神様と人間の関係もそこに心情的な差異・間隔がなく、語る言葉に込められた情が自然と行き来するのでしょうか。

特に完成された夫婦の霊人体は一体となっていると言いますから、どちらから発した言葉かという区別すら必要ないような一体感なのかもしれませんね。

秋の夜長にコタツに入りながら、家族団欒の時間を大事にしたいと改めて感じました。





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posted by とら吉 at 19:11| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月28日

線路の切り替え

明日の名節の準備で、今日はお供え物の買い出しに出かけました。

教会の礼拝堂に婦人たちが祭壇を準備していましたので、色々と手伝いつつ、買い物にも出たのですが、いつもながら手際よく準備が整っていきました。

第52回真の子女の日と第24回天宙統一国開天日の名節を一緒に行なうという事で、何気に力が入りますね。

開天日が陽暦だったものが天暦になったので、これほど接近することになろうとは思いませんでしたが、天暦を定めたお父様が設定されたのですから、何らかの意図がそこにあるのでしょう。

明日はインターネット中継が行なわれるそうですが、名節の度に天正宮に飾られるお供え物をまじまじと見るのがいつも私の関心事で、いつか功績を立ててあの円筒のように飾られたお供え物を一つ拝受したいものだと思っています。





Yet Another Sunset Panorama / versageek




ところで暦と言えば、今日2011年10月28日は、一節ではマヤ暦における人類滅亡の日だそうですね。

新聞や雑誌などでそれを取り上げて、一部ではもりあがっているようです。

今のところ何もありませんが、すでに天暦が始まっていますので、何の問題もないのでしょう。

ポイントで切りかえられた新しい線路を走っていて、ふと斜め後ろを眺めると、以前に走っていた線路が途切れていて、崖になっていた事に気付いたようなものでしょうか。

人類滅亡と言われるこの日の翌日に名節の式典が行なわれる事に、何か偶然ではない、天の意図があるように思えてならないのは、私の思い過ごしでしょうか。

いずれにしても感謝で過ごすべき10月末の数日なのでしょうね。

明日の式典のインターネットによる中継がトラブルなく繋がる事を祈りつつ、今日の夜の12時を迎える事になりそうです。









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posted by とら吉 at 16:50| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月26日

焦り

今日は所用でJR中央線に乗って新宿まで出かけました。

国分寺方面から約30分で新宿にたどり着きますが、昔はこの道筋を歩いていたのだと思いながら、のんびりと車窓を眺めつつ考えていました。

江戸時代に五街道が整備された頃に、甲州街道の一番宿は元々は高井戸でしたが、日本橋から高井戸までが1日路としてはかなり遠いので、内藤家の新宿の所領地に宿を置かせてもらったのが新宿の始まりだそうで、高井戸は西荻窪近辺だと考えると、昔であれば1日路を電車で走っている事になりますね。

それだけ便利になった訳ですが、その分社会生活においても時間に焦らされているのですから、1日を30分に圧縮して生活しているようなもので、それだけストレスが溜まって来るのも無理もありません。




Menacing clouds over the lake of Neuchâtel / Tambako the Jaguar



天の摂理を考えると、D−DAYを目前にして神様との約束を死守するために、焦るように摂理を進めておられるご父母様の心情を私たちは肌身に感じる毎日です。

ところで神様御自身に焦りという心情はあるのでしょうか。

原理で成長期間を定められた神様ですから、希望的な結果を期待しつつ待ち望むという心情はお持ちでしょうが、時間に追われて焦るという心情は、時間をも主管される神様にはおそらくあり得ない心情だろうと思います。

一方、人間においては「期待に応えたいと切望する心情を動機として焦りを覚える」というような焦りは、むしろ本然の世界でもありそうですので、人間にとっては本来的に備わっている心情なのでしょうね。

限られた地上生活の時間の中で、思い通りに霊人体が成長していない焦りを感じつつ切磋琢磨するような生き方も、本然の世界ではあるのだろうと思います。

それでも霊界では悠久の時を神様と共に暮らすように創造された人間ですから、霊界にあっては焦りという心情は本来は無くなるようになっていたのかもしれません。

霊界で霊人体が焦りを感じるとすれば、その成長が不十分で、何とか霊人体の完成を目指して再臨協助したいと焦るような場合でしょうか。

いずれにしても人間の堕落と共に、霊界に本来ある筈の無かったものを、堕落人間は色々と持ちこんでしまっているのでしょうね。 

そう考えると、地上天国・天上天国の完成に向かって、ますます焦る思いに駆り立てられてしまいます。





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posted by とら吉 at 20:38| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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