2012年06月30日

全方位性

先日、小学校時代の友人から電話があって、久し振りに会話する機会がありました。

用件はその友人の母親が亡くなった事とすでに密葬を済ませたとの連絡でしたが、私にも一応連絡をしておかなければならないと思って、電話をかけてきたそうです。

久し振りに会話する中で、その友人が性格的に随分と丸くなって角が取れてきたように感じました。

昔はかなりとげとげしい性格だったように記憶していましたので、仕事や年齢と共に性格も和らいできたのかと、改めて考えさせられました。

私たちはみ言では、12の真珠門を通り抜ける事が出来るようにと、人格的な成長と完成を求められます。

実生活においてはなかなか難しい課題ではありますが、愛と心情の訓練を通して、目指して行くべき内容である事は間違いありません。

私の周りの高齢者を見ても、好々爺という言葉がぴったりと当てはまる円満な人格の方も居れば、誰が見ても頑固○○○だという評価の方もいます。

その通過してきた人間関係や社会との関係性によって、人の人格も変わりますが、一般的には年齢と共に二極化するようですね。




inflaming light ... / Phygras




ところで昨日のブログで、主体と対象の授受作用によって混然一体となるという事を書きましたが、この主体と対象の運動様相というものは、見方を変えると心情の方向性とその様相でもあると知人が話していました。

み言に出てくる主体と対象の授受作用により混然一体となった球形運動とは、見方を変えると心情の方向性が球形、つまり全方位的に向かうという事だという意見です。

確かに自分自身の心情は授受作用と言う形で方向性を持って展開して行くのですが、その個人の心情の豊かさに応じた方向性にしか流れないと言う事も考えられます。

例えばこの人は気が合わないだとか、この人は気が合うというのは心情の方向性に偏りがあると言う事ですね。

ある主体が時に応じて対象の位置にも立ち、円滑に授受作用できるような心情の様相を持つように心掛け、努力し、訓練することで、心情の方向性が球形つまり全方位的に展開されるようになり、それが他の主体あるいは他の対象との授受作用においての心情の方向性をも容易に展開できるようになるのではないかという事です。

考えてみれば、創造本然の世界においては主体と対象において、その主体がまた別な個性真理体に対しての対象となったり、もとの関係性の対象がまた別な個性真理体の主体となったりして、その関連性が無限連鎖のように繋がり、結ばれるようになるのでしょうから、その中では少しの自助努力によっても、大きく人格が磨きあげられていくのかも知れません。

人格円満という言葉はまさに心情の方向性があらゆる方向性に向かい得ることの表象の様に思えますね。






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posted by とら吉 at 19:58| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月29日

自叙伝書写会でしたが・・・

私は誰とでも気持ちがすっと通じます。お婆さんが来ればお婆さんと友達になり、子供たちが来れば子供たちとふざけたりして遊びます。相手が誰であっても、愛する心で接すればすべて通じるのです。                      (自叙伝p76)

 監獄暮らしといっても特に恐ろしくはありませんでした。経験があったからでしょうか。その上また、私は監房長と親しくなるのが上手です。二言三言話をすれば、どんな監房長でもすぐに友達となってしまいます。誰とでも友達になれるし、愛する心があれば誰でも心を開くようになっています。  
                             (自叙伝p101)

 訪ねてくる人には、三歳の子供であろうと腰の曲がった目の遠い老人であろうと、愛の心で敬拝し、天に対するように仕えました。年取ったお爺さん、お婆さんが訪ねてきても、夜遅くまで話をしました。  「なんだ、年を取った老人なので嫌だな」というような思いを持ったことは一度もありません。
 人は誰でも尊いのです。人が尊いことにおいて、老若男女に差別はありません。
                              (自叙伝p97)



本日は浅川勇男先生をお迎えしての自叙伝書写会でした。

本日の書写のみ言は「愛する心があれば誰でも心を開く」です。



120629書写会.jpg



書写会には私も参加したかったのですが、今日は教会がお世話になっている婦人の先祖8家系の聖和祝祭を行ない、そのお手伝いをしていましたので、書写会には参加できませんでした。

同じ日に二つの大きな行事が重なって、昨日まではその準備で目の回るような忙しさでしたが、なんとか無事に終了しました。

あまりに忙しくなると、自分の分身が欲しくなりますね。

だからと言ってSFのように、ものの考え方や性格までそっくりのクローンがいたとすると、自分と同じことをしようとして自己主張し、ぶつかり合って、とても自分の手伝いにはならないようにも思えます。

下手をすれば自分がそのクローンに自分の位置と立場を奪われかねない訳ですし、何より主体と対象と言う関係性無くしては、物事がうまく進まないという事でもあります。

結局、あまりの忙しさに自分の分身が欲しいと言っても、正確には、自分の分身であるかのように動いてくれる対象の立場に立てる人が欲しいという事ですね。

主体と対象の関係性に基づいて物事はうまく発展するのですが、その際には時として対象が主体の立場に立つような事もあって、混然一体となって発展すると言う事を考えると、複数でそれぞれが主体である事を主張し始めると、そこには分裂と混乱しかありません。

この数日の民主党の紛糾ぶりを見ていると、正にその通りの状況ですね。

時として対象の位置にも立つ事の出来る、腹の据わった主体の位置を全う出来る、器の大きな政治家はいないものかと思う次第です。








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posted by とら吉 at 21:22| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年06月27日

夢幻

今日は少し蒸し暑い一日となりました。

所用で車で午後出かけましたが、車の中は暑くてクーラーを使わなければ熱中症になってしまいそうでした。

体がまだ暑さに慣れていないので、頭の回転が鈍くなって集中力を欠いていましたが、本格的な暑さが来るまでに、何とか慣らしておきたいものです。

ところで意識が朦朧としていると、幻だか現実だか分からないような事に遭遇する事も在りますね。

昔、大学生の頃に徹夜でゼミの課題を仕上げて学校に提出し、帰り道に古本屋に立ち寄って古書を手にとって、立ち読みしていた事がありました。

その時に自分の左の視界に入る境界線近くの所で、手にしていた本の端っこに小さな黒いものが上から落ちてきて、ポトリと音がしました。

古書店ですから、小さなクモでも落ちてきたのかと思ってそちらに視線を向けたところ、確かに小さなクモのような手足が見えました。

ところが手で払いのけようとしても動きません。

おかしいなと思って目を凝らして良く見ると、それはクモではなく、段落に印刷された星印(*)でした。

その時は徹夜明けの影響で幻でも見たのかと思いましたが、その時の落ちてきたポトリという音は、30年経った今でも耳に残っています。



early autumn / "KIUKO"




考えてみれば、人生も夢芝居だと言う方も居て、臨終の床に就いた時に振り返る自分自身の人生は、正に夢幻のように思い返されるのかも知れません。

しかし愛の完成を目指すべき私たちにとって、振り返る人生があまり芳しいものではなかったとしても、神様やご父母様との心情的な触れ合いは、宝のように記憶に残しておくべきものですね。

そしてその際には、再臨の主と同じ時代に生きてみ旨を歩めたことを、何よりも感謝すべきでしよう。

過去の宗教者や求道者にとっては、再臨の主と共に歩める事自体が夢幻のごとき願望だったのでしょうから、故人が抱いた夢幻が自分自身において具現化している事を忘れてはなりませんね。







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posted by とら吉 at 18:55| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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