2013年02月28日

自叙伝書写会

私は理念と宗教の違いゆえに相手を憎み、互いに敵となった国どうしの間に、平和の橋を架ける仕事に生涯を捧げました。
 イスラーム(イスラム教)とキリスト教が融和するように交流の場を設けたり、イラクをめぐって対立する米ソの意見を調整したり、北朝鮮と韓国の和解に尽力したりしました。
 名誉や金欲しさでしたのではありません。物心がついて以来、今に至るまでの私の人生のテーマはただ一つ、世界が一つになって平和に暮らすことです。他のことは眼中にありません。昼夜を問わず平和のために生きることは容易ではありませんが、ただひたすらその仕事をする時、私は幸福でした。                                      (自叙伝p16)

 私の願いは、世の中を幾重にも囲んできた塀と垣根をきれいさっぱり壊して、一つになる世の中をつくることです。宗教の塀を壊し、人種の垣根を取っ払い、富む者と貧しい者の格差を埋めた後、太古に神様がつくられた平和な世の中を復元するのです。
 飢えた人もなく涙を流す人もない世の中ということです。  (自叙伝p19)


本日の自叙伝書写会の訓読のみ言です。

「世界が一つになって平和に暮らす」という書写のみ言に関して、教会長様が講話をして下さいました。

より大きな事の為に生きると自分にも福が来るということもあって、人間は自分の生きていくテーマをより高く大きく策定すべきです。

私たちの日常生活の中で、世界が一つになって平和に暮らすと言う事を意識する事は、あまりないかもしれませんが、そこに関心を持つことで自分の生活と連結しましょう。

このような前置きと共に、幾多の逆境に遭いながらもより高邁なテーマを持って人生を生き抜いた方として、李方子様を取り上げながら講話をしていただきました。

自叙伝書写会も2巡目の終盤になりましたが、参加者の表情も当初に比べて、とても生き生きしてきたように感じます。



書写130228.jpg



今日の講話の中では物事に関心を持つことの必要性も話されました。

マザーテレサの「愛の反対は憎しみではなく無関心である」という言葉を引用され、高齢者も家族や社会から自分に対して、関心を持たれ無くなる事に不安と恐怖を感じているという話もありましたが、これは核家族化した現代社会の大きな課題でもあります。

高齢者のポジションが曖昧に成りつつある現代こそ、真のお父様のみ言にあるように、親子孫三代が神様に侍って暮らす家庭を理想家庭として目指すべきなのですね。

誰にでも老いは来ますが、周囲から関心を持たれ無くなってしまわない為にも、私たちはより高邁な理想に向かって生き、それを日頃から体現して周囲に良い影響を与えていくような生き方をすべきなのでしょう。

常に人に関心を持つ生き方を心がけ、また常に人から関心を持たれるような生き方を心がける、それこそが人間として本来有るべき姿なのでしょうね。










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posted by とら吉 at 15:03| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月27日

変化の認識

基元節を過ぎて、新たな世界へと突入して行く時代になりました。

そうは言っても突然すべてが変化して行く訳ではないので、あまり変わりない日常生活の延長になっているように感じるのですが、霊的には大きく変わって、人類そのものの霊的背景が変わってしまったようにも思えます。

過去においても新しい時代、新しい世界と言われた節目はありましたし、個人においてもそのような節目は幾度となく訪れますが、何処から変わったのかという一点があいまいではありました。

その点で、基元節は明確な節目の一点であり、人類全体が新しい段階に突入した事を考えると、一つのレベルアップというよりは、階段の踊り場に上がって次の階段に上る一歩を踏み出したようなものでしょうか。

それはおそらくとてつもない跳躍が必要であり、そのために到底昇り上がる事が出来ないものを、真のご父母様の精誠によって一機に跳躍させていただいたのでしょう。




角島大橋 -TSUNOSHIMA Bridge- Scene01 / suzumiyaharuka



個人の人生を考えてもそれなりに節目はありますが、入学式や卒業式、成人式や結婚記念日など、日時が明確であればそれなりに新しい変化、出発も認識することはできますし、そこから以前と違った環境に生きる事になれば、嫌でも認識せざるを得ませんね。

これが社会の変化となると例えば今回の天一国の様に国家そのものにおいては、独立記念日や憲法の発布日などは、その日を起点としてそれまでの状況と大きく変わる事が明確ですから、変化の認識も明確になります。

しかし文化や生活様式などは、何処に変化の起点があるのかは非常にあいまいで、後になって変化に気付く事も良くあり、その変化をいつまでも明確に認識出来ないでいると、取り残されてしまう事にもなりかねません。

卑近な例でCDの売り上げを例にとると、最近の音楽CDの売り上げの落ち込みが著しく、その原因として違法ダウンロードが後を絶たないからだと分析しているそうですが、この10年来の音楽配信の変化も激しくて、最近ではインターネットからのダウンロードが主流になりつつあります。

それ故にCDを買って聞くという習慣そのものが薄れつつあるのも事実で、それでも売れるCDとなると、それなりの付加価値や企画性さらには特異性が必要だと思いますが、その辺りの努力や工夫がされておらず、やみくもに他に原因を作ろうとしているようにも見受けられます。

それでも制作サイドの方たちは、その人たちなりに努力や苦労をして投入しているのでしょうが、時代や社会の変化を認識できずにいると、徒労に終わってしまうと言う事でしょう。

このように変化に対する認識が不明確であれば、自分では一生懸命に努力し苦労していると思って居ても、それが実を結ばず徒労に終わってしまうことがありますので、基元節を過ぎてからの社会の変化が認識できなければ、世の中も同じような現象が現われてくる事が考えられます。

世の中のみならず私たち自身も、基元節を節目として、これからの変化を正しく認識して、何処に自身の心情と精誠を投入すべきなのかを考え合わせながら、生活を組み立てていく事も必要なのかも知れません。

そのためにも天の意向と方向性をしっかりと見つめて歩みたいものです。







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posted by とら吉 at 16:37| 東京 ☁| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月24日

本日の礼拝

お父様は、蕩減復帰摂理歴史を勝利をもって導いてこられました。その一つ一つには、列挙することができない悲痛と悲しみ、痛みがあります。蕩減がそうです。私たちに全てを探し出して与えてくださったのですが、これを受けるばかりでいられないことも事実です。責任を果たすことができなければ、私たちにも蕩減が生じるのです。 天の願いと私たちの願いが地の果てまで届き、天の父母様のことを知らない人がいないようにしなければならないのが、私たちの責任です。  『孝子』や『忠臣』という言葉は、安楽な時に語られる呼称ではありません。最もつらく困難な時、父母様のために死生決断、国のために全力投球、このような心情と実践が伴わなければ、その呼称を受けることはできません。
 皆さんが歴史上、先にもあとにもないこの時を迎えて、最も祝福された幸福な時であることは間違いありません。しかし、皆さんが責任を果たせなければ最も悲惨な時になります。なぜでしょうか。伝道することができずに逝った全人類が、皆さんを讒訴するからです。                        (中略)

「伝道しなければなりません。氏族的メシヤの使命を果たさなければなりません。残された人生で、これをしなければなりません。これができなければ霊界に行って、真のお父様にお会いする面目がありません。『私が地上でお前たちに教え、またお母様までも、このように切実にお願いしたのに』。あなた方だけでなく、子孫のためにも、必ずしなければならないことです。 私は皆さんにこのような話をします。環境創造をよくしましょう。環境創造がよくできた所では、一言だけ語っても十のみ言が分かるようになります。神様がアダムとエバを創造された時、アダムとエバは、神様と一問一答したでしょう。同じです。私たち祝福家庭たちが、環境をそのように創造するならば、少し努力するだけで伝道されないはずがありません。できるのです。基元節の後には、皆さん方の精誠いかんによって、そのような奇跡のような驚くべき役事を見るようになるでしょう。私は宣言します」

<第46回 天の父母様の日 真のお母様のみ言 抜粋>



本日の礼拝の訓読のみ言です。

本日は韓国での基元節の行事から昨日、帰って来られた教会長様の帰国報告になりました。

天一国の出発を真のお母様が高らかに宣布された今、私たちも天一国のペンテコステを起こすべきである。

これからの7年路程を如何に歩むかという事を、自分自身に問い質すべき時であると教示して下さいました。


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礼拝の中で、マタイによる福音書13章31節〜32節を例に挙げ、

「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」。

この譬えのように、今まではからし種すら蒔かれていなかった所に、からし種が蒔かれた事自体がとてつもない感謝であり、それをいかに育てるのかが今後の私たちの責任であると話されました。

蛇足ですが、このからし種については古来諸説あって、そもそも洋からしの草木に鳥が宿る事が出来るのかという観点で、議論された事もあるそうです。

あくまでも譬えなので、からし種はあくまでも小さなものの象徴なのでしょうね。

豆本サイズの聖書を一般的にはからし種と呼ぶそうですから、その辺りが妥当なのだと思います。

いずれにしても天一国は、今はまだ小さな種子のようなものですが、早晩大きく育って地球全土を覆い尽くす事でしょう。

その光景を2020年に見たいものだと思いました。






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posted by とら吉 at 18:28| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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