2013年01月31日

自叙伝書写会

 幸福は必ず相対的な関係においてのみ成立します。生涯を声楽家として生きてきた人が、無人島に行って声が嗄(か)れるほど歌を歌ったとしても、聞いてくれる人がいなければ幸福になることはできません。私がある相対のために存在しているという事実を悟ることは、人生の尺度を変えるような一大事です。私の人生が私だけのものでなく、誰かのためのものであるとすれば、今までの生き方とは全く違う道を行かなければなりません。
(自叙伝p343)

 幸福は、人のために生きる人生の中にあります。自分のために歌を歌ってみても全然幸福ではないように、自分のためのことには喜びがありません。いくら小さくて、取るに足りないことでも、相手のために、人のためにするとき、幸福を感じるのです。幸福は、「為に生きる」人生を生きる時にこそ発見できるのです。
(自叙伝p343)


昨日は浅川勇男先生をお招きしての自叙伝書写会でした。

「幸福は人のために生きる人生の中にあります」というみ言の書写の回でしたが、午後には教会で自叙伝書写伝道の勉強会も行なってくださって、内容の濃い書写会と成りました。


syosya130130b.jpg


講話では、幸せとは誰かを喜ばせた時にいただく報酬であるという言葉が印象的でした。

また幸せになる二つのポイントとして
@ 人の為に顔を使う
A 人の為に口を使う
という観点でお話がありました。

人の為に顔を使うと言うのは笑顔の事であり、人の為に口を使うと言うのは言葉の事ですが、これらを細やかな配慮と共に上手に使う事が重要ですね。

自叙伝書写の普及に、さらに尽力したいと思いました。




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2013年01月29日

節目

私の所属する教会で清平大役事に参加して、帰国以来体調を崩している婦人がいて、インフルエンザと判明しました。

清平では元気だったそうですので、帰国途中のどこかで罹患したのかも知れません。

このところインフルエンザが猛威をふるっているので、充分に注意したいものですね。

この婦人にとって、今年は何かと体調を崩しやすい年周りだそうで、ご本人もそれを自覚していて、節分からは変わるだろうと言っていたそうです。

節分は季節の変わり目であり、旧暦においても昔から年の境目でもありましたから、個人の運気もまた節分を境目として移り変わるそうですが、どうせなら良い方に移り変わって欲しいものです。

それ故に新たに迎える年が良い年であるように、豆まきをしたり、イワシの頭やヒイラギなどを戸口に飾って魔除けをしようとするのですが、逆に福を呼び込もうとする風習はあってもあまり目につきません。

最近コンビニなどでもよくPRしている恵方巻きの行事なども、大阪の船場などのごく限られた地域で行なわれていたものですし、豆まきにしても鬼の退散にかなりのエネルギーを費やしていて、「福は内」という言葉は飾り程度にしか思えないですね。




Far East Amur adonis / Adonis ramosa / 福寿草(フクジュソウ) / TANAKA Juuyoh (田中十洋)



降りかかる魔を避けたり立ち切ることにエネルギーを費やしてしまって、福を呼び込む方には余力を残していないのか、あるいは魔を払いのける事さえできれば、福はおのずと生み出されてくるのかと考えると、おそらく前者でしょう。

古人も社会に満ちる魔の勢力を感じ、それを払いのける事に相当に投入していたのでしょうか。

また、善の勢力の脆弱さをも感じ取っていたのでしょうか。

翻って私たちの今の生活環境を考えると、清平ではもう4600億に及ぶ絶対善霊が生み出されていて、その加護の中で私たちは信仰生活をしています。

その絶対善霊も清平役事がなければ顕現しなかった存在ですから、この十数年の期間に善の勢力が格段に増え広がってきていると言えます。

大母様のみ言でも、原理的生活をすれば祝福家庭は福を受けるようになっていると言われていますので、そこにポイントを絞る事が「福は内」の実現に繋がるのでしょうね。







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2013年01月27日

本日の礼拝

本日は新しく就任された宋龍天総会長のインターネット礼拝でした。

徳野会長や鮮文大学の黃善祚総長のスピーチもあって、内容の凝縮された礼拝であり、基元節を前にして新しい出発をしようとする、天の大きな恩恵を感じました。


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長女が成約断食を行なっていて、本日の夜の12時で完了予定です。

断食中に皮膚科に診療に行ったり、足つぼマッサージに行ったりしていましたが、足つぼマッサージのお店で、自分が断食中だと言ったところ、ダイエット中の所業だと思われたそうです。

一般の断食道場などでも数日間の断食は行なうそうで、ダイエット以外にも体調を整えたり、気の巡りを調整する目的で行なっているようですね。

そう言えば一時期、ミルク断食というのも話題になりました。

一日3食を新生児用の粉ミルクにするのですが、宿便が排泄されるのか、最初は必ずと言っていいほどに下痢が続くそうで、仕事をしながら行なうというわけにはいかないそうです。

いずれにしても、日頃口にしている食事を見つめなおす機会ではありますね。

断食明けには食事に対する感謝や喜びが、際立って心に刻み込まれます。

断食明けでなくても、いつもこのような感謝の思いで食事をいただくべしと、神様が教えてくださっているのでしょうね。







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2013年01月25日

言葉の動機

年始に訪れた石和温泉のホテルから、雛祭りの頃に行なわれるイベントの招待状が届きました。

リピーターが多いホテルだと聞いていましたが、確かに様々な面でそれなりに充足感を与えてくれるので、再訪したいという思いが沸き上がってきました。

実際には忙しくて実現しそうにありませんが、それでも旅の思い出は思い返すだけでも心を癒してくれます。

心のリフレッシュ、気分転換のレベルから傷心旅行のレベルに到るまで、旅の効用は多様ですね。

私が学生の頃には、自分探しの旅に出ると言う人も居ましたが、これは私も良く分かりません。

異郷をさまよってますます自分が何なのか分からなくなって、結局有り触れた元の生活に戻ってくる方が大半であったように思います。

旅に哲学的なメッセージを求めようとする事自体が見当違いなのかも知れません。

そう言えばこの10年ばかりの間に、ヒーリングや癒しという言葉が世の中に定着して来ました。

心の病んだ人を心理的に安定した状態に戻すと言う意味で理解して良いのでしょうね。

癒しを求めて旅行に出たり、芸術に没頭する事も普通に行なわれるほどに、世の中は心理的にあるいは精神的に圧迫や軋轢が多いという事なのでしょうが、安定した状態を如何に保つかという事に関しては以前から問われていた命題で、平常心などと言う言葉もその一つでしょうか。




根っこ風呂 / ttanabe



ところで先日読んだ書籍に、心をあるがままに開放すべしという記述があって、上司に対するお世辞などのように、心にもない言葉を繰り返していると、知らないうちに自分の心を傷つけてしまうと書かれていました。

確かに自分の保身の為など、自己中心的な動機と心情から出た言葉は、例え言葉自体は良いものであっても、その言葉を口にしている自分自身を責め苛む気持ちが生じて、結果的には心にしこりを生み出す事でしょう。

他方、言葉には言霊が宿るので、感謝出来ない状況でも感謝という言葉を口にし続ける事で、感謝出来るようになると言う事も、私たちは学んでいます。

その双方の差異は何かと考えると、やはり言葉を発する際の心情の動機にあるのでしょうね。

心情の動機に応じてそれに相対するような言霊が、言葉には宿るのでしょうか。

同じ言葉を受け取っても、自分の心情が上がる場合もあれば下がる場合もあります。

もちろんその言葉を受け止める自分自身の心の姿勢によって、心情は大きく左右されますが、それ以外にもその言葉に込められた思い、あるいはその言葉に込められた言霊の質によって左右される部分もあるのでしょう。

自分が発する言葉の一つ一つを、より善い動機を持って口にする事が大切なのだと思うのです。






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2013年01月24日

損得勘定

昨年末で長女(歯科衛生士)が一旦仕事を辞めて、基元節行事が済んだ頃にまた職探しをしようとしています。

その間に身の回りの整理もするつもりの様ですが、昨年までの職場は給与面で今一つ良くなかったと、最近になっても呟いていました。

小さい頃から損得勘定で物事を考えるなと言っては来ましたが、それでも関西人の血を受け継いでいるのか、あるいは世の中の風潮に流されているのか、どうしても損得勘定で物事を計ってしまいます。

確かに世の中は、自分だけが損をするのは嫌だという風潮が蔓延していますので、その影響を受けるのも分からないではないのですが、それでも信仰者であればその状況に応じて、自分が多少の損をすることをも厭わないように生きて欲しいものです。

そう言えば昔、子供達に物事を損得勘定で計るなという躾に関連して、落語の「三方一両損」の噺を例に出した事がありました。

大岡越前守のお裁きの噺で、3両入った財布を落とした江戸っ子堅気の大工と拾った左官屋が、それぞれに、落としたものは受け取れないから持って帰れ、拾ったものだから必ず返すと息巻いて奉行所の白州に来てまでも争っていたところ、大岡越前守が自分の懐から1両出して二人に2両づつ与えて、大工と左官屋はそれぞれ懐に3両入るところが2両となって1両づつ損となり、奉行も懐から1両出したので3人が1両づつ損となって三方一両損として裁定したという筋書きです。




日光江戸村 / mizuo_fiat



ところで、江戸時代の1両の価値は、物の価値そのものが現代と違っているので、換算する物によってその価値が異なりますが、蕎麦の値段で換算すると12〜13万円と言われていますので、それを自腹で提供する奉行も太っ腹であり、それ以上に自分の犠牲で他者の憤りや争いごとを解決しようとする意志の現われと考えれば、現代の私たちにも通じる噺かもしれません。

他者のために犠牲を厭わないという考え方は重要ですね。


為に生きると言う私たちの教会の大きなモットーも、裏を返せば人のために自分が損する事など厭わないという発想ですし、そもそも「損」ではなくて「犠牲」であり、さらにはその犠牲すらも犠牲として認識しないレベルの心情の世界を、私たちは真のお父様の生き様から学ぶ事が出来ます。

また、私たちですら、子供のために何か犠牲を払う時に、親としてそれを犠牲だとは思わないものです。

それを思えば、親子の関係の中にこそ純粋に為に生きる心情の世界が芽生えるのであり、それを他者にまで広げていく姿が、神様が願う本来の人間の生き様なのでしょう。

基元節以降の世の中において、損得で物事を計る世の中の風潮を転換して行きたいものですね。




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posted by とら吉 at 19:45| 東京 ☀| Comment(0) | 信仰的考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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